Ⅰ、はじめに
近年、我が国では健診が普及してきたといっても、手遅れの癌に罹患する患者は後を絶たない。癌検診の有効性の問題はあるにしても、鍼灸院で見逃して手遅れにしてしまうケースも否定できない。このようなケースを極力無くすために、鍼灸師でもできる癌を含めた悪性疾患の鑑別法について考えてみたい。
(社)全日本鍼灸学会関東甲信越支部では3・4年前より『癌と鍼灸』をテーマにして研修活動を行ってきた。その一環でこの6月に千葉県幕張メッセで行われる第53回(社)全日本鍼灸学会学術大会において、『癌と鍼灸』をテーマとしたシンポジウムが6月12日の午後に開催される。このシンポジウムのコーディネーターの1人として、この機会に癌に代表される進行性で難治な悪性疾患の鍼灸師でもできる鑑別法について自説を開陳し読者各位のご批判・ご教授を受け、より精度の高い鑑別法を確立していきたいと考えた。この内容の概略は、東京衛生学園臨床教育専攻科(教員養成科)での教育内容とほぼ同様であり、第22回(社)全日本鍼灸学会関東甲信越支部学術集会での教育講演と、平成16年度第1回(社)日本鍼灸師会学術講習会での講演内容ともほぼ同様である。
Ⅱ、鑑別・診断能力を高めることの動機付けの背景
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<症例1>
年齢:45才(男) 職業:会社員(経理部長) 170㎝ 70㎏
主 訴:背部痛(Th5~Th11の脊柱起立筋部、膀胱経第1線)
発症日時:1年位前より
発症原因:不明(徐々に痛くなってきた)
経 過:少しずつ悪化している様な気がする
治 療 歴:内科(近所の開業医)、マッサージ
診 断 名:内科では問題はなく、ストレスと過労が原因という診断
治療経過:鎮痛剤とビタミン剤が出たが服用せず。マッサージ後は少し良い持続しない
既 往 歴:幼児期に喘息、二十代に十二指腸潰瘍(服薬で治癒)
定期検診:年1回受診 血圧やや高く、高脂血症を指摘される
社 会 歴:デスクワークがほとんど、VDTは2時間/日くらい
スポーツ:ゴルフとテニスを月1回位行うがその時は痛みはない。中・高校時代は柔道部
家 族 歴:父親は胃癌で死亡 他特になし
随伴症状:肩凝り、眼の疲れ、頭痛、下痢、胃のもたれ、腰重、足が怠い
(しかし、主訴と随伴症状は特に相関はない)
一般症状 ① 食欲:それほど無いが食べられる
② 睡眠:時々中途覚醒し眠れない ③ 便通:下痢気味
嗜 好 ① 酒は毎日飲みビール2~3本位 ② 煙草は吸っていたが3年前に止めた
③ 油濃い物が好きだったが、最近はあまり食べない
日常生活 ① デスクワークが長いと悪化するが他に特に悪化要因はない
② 体動での痛みの変化はない
視 診 ① 側彎・前彎・後彎・階段現象等の胸椎の異常無し
② 筋萎縮や筋肉の膨隆等の異常もない ③ 姿勢や肩甲骨の高さも異常無し
触 診 ① 脊柱起立筋等の背部筋の異常緊張はない
② Th5からTh11辺りにかけて圧痛がある
③ 背部皮膚温に左右差はない ④ 下肢はやや左下腿の方が冷たい
⑤ 腹部は全体にやや冷たく、張っている。デファンス等や腫瘤もない
可 動 域 頚部・胸椎・腰部の可動域には異常無く、痛みもない
理学検査 ① 腰部・頚部の理学検査は何れも正常
② 知覚検査、棘突起叩打痛も無く全て正常
脉 診 ① 脈状診はやや数・浮で滑
② 六部定位脉診:左関上と尺中の虚で肝虚証
腹 診 全体に緊張し、上腹部堅く、下腹部に力がない
背 候 診 心兪から脾兪にかけ圧痛があり、膈兪はやや堅く、肝兪と脾兪が陥凹している
舌 診 舌苔白
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この症例は、今から十数年前の8月はじめに友人の紹介で来院した患者である。今ならば患者を実際に診なくても一目でわかる病態であるが、当時は望診(顔面診)で神気が無い(顔の色つやが悪い、目に力がないなど)こと、脈状がやや数・浮・滑で内熱を示唆していることなどから内臓の異常が想定されたがそれ以上はわからなかった症例である。そこで、経過観察が必要であることと、症状以上に重篤であると判断したので週3回の受診を指示したのであるが、通院に1時間以上かかることや忙しいことなどで週1回しか来院できないということであった。
一週間後の2診では、前回治療後すっかり元気になり友人達と宴会気分で痛飲したということであったが、2・3日で元に戻ってしまったということであった。3・4診でも同様であったが、若干症状が悪化したように見受けられたのと、直後効果が初診ほどではなかったということで、次回も同様であったら専門医を受診するように勧告するつもりであった。今までの経験上、「直後効果は著明だが、累積効果が得にくい」のは悪性の可能性が高いこともあり、初診時の印象と併せて当然の判断のように思われた。本音をいうと2診時に勧告しようかどうか迷ったのであった。しかし、私自身「振り分け診断の専門家」を自負していたのだが、何科に振り分けて(どの医師に紹介したら)良いかわからなかったので躊躇したのが現実である。しかし、5診はキャンセルされ、以後来院せず、その内私の頭の中から、かの患者は忘れ去られたのであった。
2ヶ月以上もたった11月の半ばに、この患者を紹介してくれた友人から電話があり、「この藪医者」と一喝されたのであった。この患者は9月に悪化して某大学病院の内科に入院したのであったが、病名は「慢性胃炎」であり、2ヶ月の入院加療でも症状はむしろ悪化したので、自らの意思で順天堂大学病院に転院したところ「膵臓癌の末期」で余命2・3ヶ月という診断であった、ということであった(事実次の年の2月中旬に亡くなった)。大学病院で2ヶ月も誤診状態であったということが救いではあるし、例え8月の時点で膵臓癌を疑診(疑いを持つこと)して専門医に転医したところで助かったかどうかは疑わしい、ということもあるが、誤診は誤診である。しかも悪性疾患の疑いを持ったことも事実であるのに何の対応もしなかったという問題がある。
しかし、悪性疾患の疑いを持ったにしてもそれは「勘と経験」の世界である。今まで、多数の末期患者を診てきた経験と、望診・脉診の技術などで、かなりの疑診の実績を持っていて、紹介した医師らから「小川大先生」と持ち上げられて天狗になっていたきらいもあり、その天狗の鼻をへし曲げられた気分であった。
確かに「勘と経験」は非常に重要な要素ではあるが、その基礎に学問的な裏付けがあればより鑑別診断の精度が高まるに違いないと思って、成書を調べるが、残念ながら医学書は、はじめから医学検査をする前提で書かれていることと、書いている人達が入院患者や大学病院の外来・救急患者だけを見ている大学の教授がほとんどなので、「一人で歩いてくる患者」を「素手で診る」鑑別診断法は何処にも書かれていないことに気がついたのである。それならば、我々開業鍼灸師で「開業鍼灸師のための鑑別診断学」を構築しようと考えたのである。
ちょうどその時に勁草書房から「正直な誤診の話」という本が出た。この本の作者の柳原病院内科部長(当時)の川人明医師に直接会ってお話しする機会があり、その時に川人医師が在宅医療に情熱を持っており、「素手の診断学」や、「往診学」を確立したいということで、全く方向が一致したので一緒に勉強することになったのが、医道の日本誌上において平成4年12月号より平成7年月号まで連載した『愁訴からのアプローチ』1)2)であった。
さて、この症例は診断や治療を考える素材として面白かったので数年前モデル症例にして色々な流派の方にお見せし、それらの方がどの様に診断し、どういう治療法でどう選穴するかという、すなわち鍼灸の東西診断・治療法を比較するということを行った。この内容も専攻科の教材ではあるが、第14回(社)全日本鍼灸学会関東甲越ブロック学術集会(平成7年)でも講演した。
専攻科の学生は有資格者であるが、臨床経験があるものはほとんどいないので、病態は当然わからないし、ブロックの学術集会でもわかる人は皆無であった。しかし、この症例を沢田流の立場で診断治療をお願いした東京地方会会長の山田勝弘先生は、さすがに一緒に愁訴からのアプローチを勉強しただけあって、一目で膵臓癌を看破した。
この症例の重要なキーワードは、「1年前に症状が発現した」、「徐々に悪くなっている」という2点である。これらから進行性悪性疾患が疑われる。そして、「運動時に痛みがないこと」で筋骨格系の病気の可能性が薄くなり、内臓由来か心因性疾患が疑われた。そして、「背部痛」、「脂っこい物を食べなくなった」ことで膵臓癌が疑われるのである。おまけに、「毎日の大量の飲酒」(自己申告でのビール2・3本は、通常その倍程度であることが実態)及び3年前まで「喫煙」していたことは、膵臓癌のリスクファクターであるので裏付け証拠となる。これらのことを理解した上で、望診・脈状診そして経過観察(直後効果はあるが累積効果がない)での判断を加えれば、ほぼ確定的に診断を下せるのである。そして、重要なことは現実論としてMRやCTを用いられない開業医の診断はあまり当てにならないこと、検診も同様に当てにならないことである。
そしてこの症例で学んだことに一つに、大学病院では、はじめに教授が下した診断を下の医師が覆すことは難しいというような構造的な問題があるということがある(白い巨塔)。
この症例に対して、専攻科の学生から「夜間痛がない」、「体重減少がない」ということで、癌では無いのではないかという質問というか、症例自体がおかしいというような意見があった。癌になるとどうして夜間痛が起きるのか、又どうして体重減少が起きるのか、について吟味すると、夜間痛がない場合や体重減少がない場合が幾らでも想定できるし、私自身、その様な症例は沢山診てるどころか、むしろ体重増加している症例すら診たことがある。画一的な診断基準の怖さと、一人で歩いて通院できるレベルの患者の状態をあまり知らない人が医学書を書いている矛盾が出ているように感じるのである。これらの点についても本論では言及したい。
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