<対照群の種類とプラセボ:何を対照群とするか>
篠原論文では、多重比較を行ったために、鍼の治療効果を見る場合は表15のAの比較になり、この場合の対照群は、シャム鍼ということになるが、経筋治療の効果をみるという比較のBでは、他経治療が対照群となりともにプラセボである。また、他経治療とシャム鍼を比較したのでは、何を比較したのか分からないし、他経にシャム鍼をして、それを対照群として本経治療と比較したのでは、何を検討しているのかは分からない。
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表15 対照の種類
Ⅰ、内部対照(同時対照)
A、プラセボ対照
B、無治療対照
C、用量反応対照(刺激反応対照)
D、実薬対照(標準対照)
Ⅱ、外部対照
A、既存対照
B、ベースライン対照(初診時対照)
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EBMでは、対照を設けた比較試験のエビデンスの価値を高く評価するが、その際に対照群をどうするかは、重大な問題である。対照群の設け方によってその研究の意図はもちろん、研究の質や価値が決まってしまうからである。
対照の種類は、表15に示したように大きく分類するとざっと六つある。ここで内部対照*1というのは、研究対象となる試験と同時に行う対照のことで、同時対照比較試験の同時対照である。
この内部対照は、大きく四つに分類される。このうちAのプラセボ対照は、無効なと思われる治療行為を行って、被験者にはあたかも治療を行ったように見せかけるもので、篠原研究における他経治療やシャム鍼治療がそれに当たる。
Bの無治療対照(no-treatment control)は、プラセボを用いないでランダムに割り付けた対照群には全く治療を行わないというものである。この場合には前から指摘しているように当然倫理性の問題が生じるし、その上治療をしないのであるからプラセボと違って臨床効果というものが生じない。よって、試験群と無治療対照群との間に差が出ても、それは治療の有効性でなく治療を受けたという臨床効果かも知れないので若干の問題がある。その他無治療対照では、治療を盲験化できないという問題もあって、内部対照の中ではエビデンスの質はかなり低くなる。
この無治療対照は、臨床効果の問題もあるが、倫理性の問題の方非常に大きいわけであるから、対照を被験者群と限りなく同等(年齢・性別・既往歴・職業など)にした、一般の国民を対照とする方法が考えられる。この場合には倫理性の問題は当然生じない。
<鍼灸の『未病治』の有効性を如何に証明するか>
例えば、鍼灸の『未病治』の有効性を証明しようとして、十年間鍼灸治療を行った患者の有病率や死亡率と、その患者と限りなく同等の鍼灸治療を受けてない一般国民の十年間の死亡率や有病率を比較する方法を考えたとする。もちろん一般国民の多くは、たとえ鍼灸治療を受けて無くても西洋医療やその他の代替療法を受診している可能性は非常に高いが、それは鍼灸治療を受けている患者にもいえることである。また、鍼灸治療受療者は実際に具合が悪い人が多いのだから併療者の比率は高いと思われるが、鍼灸受療者は西洋医学が嫌いな人が多いこと、鍼灸治療受療者は慢性病が多いこと(治りにくい)、等から、もし鍼灸治療受療者の方が有病率や死亡率が少なければ、西洋医学などの影響は非常に軽微なのではないだろうか。
この方法で良ければ、そして、国民の衛生の動向などの各種調査から鍼灸受療者と同等の対照を得ることが出来るのならば、鍼灸院来院患者の内の半数をプラセボ(偽鍼)や無治療に振り分ける必要が無くなり、全ての来院患者に治療をすればよいわけであるから、研究としては非常に楽であるし倫理性の問題に悩まなくてすむ。この方法だと、多くの鍼灸師が研究に参加することが出来るので、大量のデータが集まりメガトライアルになってエビデンスの質は高まり、万々歳ということになるが、果たして問題はないのであろうか。
十数年前に(社)全日本鍼灸学会に研究委員会が発足し、私はほぼ発足当時から委員となって活動したことがある。このときにリーダーから、沢山のデータを集めろという命が下り、腰痛班、下肢痛班、膝痛班など数班の委員が一生懸命カルテ(治験)を集積した。リーダーは、一万のデータを集めれば鍼灸治療の有効性を証明することになるといわれたが、私は一人で反発していた。「良いデータだけを一万集めようが一億集めようが全く無価値である。」、というのが私の主張である。当時はあまり聞いてもらえなかったし、統計処理班等というものを任されたことがあったが、こんなこと幾らやっても無意味だと思い、とてもやる気がなかったのでそのうち首になった(この研究委員会は、設立目的が鍼灸の有効性を証明するということだったので、それには繋がらないとあまり熱心ではなかったのであるが、その後会員の資質の向上・啓蒙のための委員会というような性格の委員会となり、それはそれで大きな成果を上げたと思う)。
もちろん全く無意味であるわけではない。SLRの陽性者(下肢まで放散痛がある)がほとんどないことや、腰痛の原因に重いものをもって起こす場合が非常に少ないこと等数多くの知見があり、鍼灸師の今後の治療に参考になることは山ほどあることは事実である(この研究委員会の業績は『鍼灸臨床の科学』1)にまとめられている)。しかし、鍼灸の有効性を証明するという目的のためには残念ながらならない。
いうなれば、この『未病治』研究には、第一に良い結果だけが集まる可能性が高いというバイアスが入る。全ての患者データをといわれても(研究委員会でもそうだった)、実際には良い結果だけが集まってきた。何故そういえるのかというと、各委員(治療を担当した)から出されるデータが少なすぎるからである。例えば腰痛の場合、一鍼灸院あたり年間に2・3例しかないということは考えられないからである。私は百数十例出したが、他の委員からは多くて十数例でほとんどは2・3例しかなかったからである。そして、悪化例は私のを除いて皆無であり、脱落例もないのである。
しかし、この問題は研究に携わる人達の意識の問題で小さくすることは可能である。当時はEBMの概念は無いか、有ったとしても普及してなかったこと、データを集積する目的が充分浸透してなかったこと、全てを出さなければエビデンスの質が無くなることの自覚等が無かったからで、今行えば当時よりも良いデータが集まる可能性は高い。しかし、そうはいっても、悪化例や無効例は出したくないのが人情であるのでバイアスは避けられないし、実際はそうでなかったとしても、そういうことがあったのではないかと指摘されたら、そうではなかったという証拠を出すことは出来ない。ただ、患者が来院した時点ですぐにインターネット上に登録するシステムを開発すれば、この問題は処理できるのではないだろうか。しかしそれでも、ベテランになれば一目で治りやすいか、治りにくいか見抜くし、そうでなくともカルテ記載時に既往歴・随伴症状や各種検査などで判断できる。最も後者の場合には、誰でも難治は難治だから問題(沽券に関わる)はないとは思うが。
この無治療対照は、その比較する対象が実験の外部から(厚生省などの資料から)得るので、この場合には外部対照*2となる。内部対照の無治療は、あくまでも実験群と対照群にランダムに分けて対照群には治療をしないという場合にいう。
この『未病治』研究の第二の問題は、十年間継続して治療を受ける患者はごく一部であるということである。多くは脱落するか、治癒して治療継続の必要を感じないで止めていくだろうから、この人達をどう処理するかである。前号のintention-to-treat分析を行えばよいように思えるが、対照はあくまでも他で見つけるわけであるからその人達の動向は分からない(内部対照ならばそれは出来るが倫理の問題が残る)ので片側だけの治療の変更となり、intention-to-treat分析の場合とは全く違ってくる。
では、十年間継続した人だけと対照とで比較して何故悪いのだろうか。第一に十年間鍼灸治療を継続するということは、十年間治療しても治らない病気を抱えているか、非常に健康に関しての意識が高い人のどちらかである。そして、前者の場合であっても、十年間も治らなくて治療を継続して行っているということは、主訴の治療以外にも鍼灸にニーズがあるからと考えるのは自然であり、それは健康意識が高いからということに繋がる。よって、ここには明らかにセルフセレクションバイアス(EBMシリーズその4参照)が有ることが分かる。よって、鍼灸治療群の方が良い結果が出ても、鍼灸治療の未病治の有効性のためなのか、健康意識の違いの結果なのかは分からないということになってしまう。健康意識が違うということは、単に鍼灸治療を受けるというだけでなく(もしそうならば、それはそれで充分鍼灸の有効性の証明になるが)、運動や食事などの養生や日常生活での節制がそうでない人よりも行われている可能性が非常に高いからである。
そうなると、何らかの対照を設けなくては鍼灸の未病治を証明することにならない。似たようなデザインに癌検診の有効性を検証する実験がある。これは、五年間とか十年間、癌検診を毎年行う群と行わない群とにランダムに分けて、生存率等を比較する実験である2)。そうすると、検診をしないという群に割り当てられた被験者は、ある一定期間「検診を受けてはいけない」のであるから、これはちょっとした問題である。と、考えるのは既に「検診が有効である」という固定観念から言わしめている言葉であって、本当に検診が有効かどうかわからないからこそ、こういう実験をするのであって、検診を受けない群に入ったとしても、その人が損失をこうむるという保証は、実験前には全く無いのである。
この問題も倫理が絡んでくるのであるが、臨床試験における倫理の問題については、様々な問題があって非常に複雑である。1998年の9月に第20回大学医学部医科大学倫理委員会連絡懇談会記念国際シンポジームが開催され、その翌日に「医薬品開発のグロバリゼーション時代における臨床試験の倫理」というタイトルで、この方面の権威者である米国イエール大学のR.J.Levine教授を招いて座談会が開かれている。この席には、(社)全日本鍼灸学会国際部長の津谷喜一郎東京医科歯科大学助教授や生命倫理研究会常任理事で弁護士の方等など医療関係者のみならず幅広い分野の方が参加している3)。この中では様々な問題が討論されているわけであるが、その中で、アフリカの低開発国において行われたAIDS治療薬であるAZT(zidovudine)のRCTが特に取り上げられた。
ここに幾つか提起してくれる問題があるのだが、まず第一に何故アフリカの低開発国で行われたのかという問題である。ただ、この点では薬品を開発した米国でまず最初にプラセボを使ったRCTを行っているので、先進国では受け入れがたい嫌な実験を低開発国で実施したわけではないことが分かる。しかし、日本での新薬開発においては、ほとんど日本で行われず、外国で行われている実態があり、この点では日本こそ世界で非難されるべきだという発言もあった。前述したが、やはり日本人にはプラセボを受け入れる心意気がないことがここでも指摘されている。
第二に、アフリカで行われたRCTでは対照はプラセボだが、試験対象となったAZTは、アメリカでのRCTで効果有りとされた量(full strength:実用量)ではなく、一日の使用量は同じだが短期間の低容量で行われたことが問題になった。当然考えられることは短期間では効果が不確実か、効果があっても再発する可能性が高いということが考えられ、低開発国の人間だから良いというのは差別であるという指摘である。このアフリカで行われる前にも、タイやブラジルでも行われているのだが、ここでも長期間の試験ははじめから考えられてもなかったということである。
何故か、はっきり言って経済の問題である。実用量のRCTを行っても、その量を使用できる経済力がある人は皆無であるばかりでなく、国も援助できないからで、たとえ有効であるという結果が出ても、実際に服用できなければ「絵に描いた餅」ということである。短期の服用ならば、経済的に国や他国からの援助で服用が可能なのでそれを用いたということであって、決して差別ではないということであった。
この指摘は重要である。鍼灸治療の有効性を考え、国民医療としての普及を考えるときに、そしてその目的でRCTを行う場合に、今行われている四~六千円程度の治療料金に見合う治療を対象として実験を行うべきか、それとも二千円程度の治療を対象にして行うべきかは大いに議論の対象となる。実際に現在の治療法でもし万が一保険の対象となり、国民の多くが保険で鍼灸治療の受療を望んだ場合に、現存の鍼灸治療施設でそのニーズに応えられるかというとそれは不可能であるというしかない。当然治療法を変えなければ、端的に言うと「手抜き」しなければ対応できない。何も考えずに治療を少なくすればそれは「手抜き」であるが、ちゃんとした実験を行って、有効性及び費用対効果*3等を確認してから行えばそれはもう「手抜き」ではなくなる。
私は以前より、「鍼灸の定義、それも保険診療での鍼灸治療の定義を作る必要がある」と主張しているが、一つはこういう意味である。もう一つは、もっと手向きして、例えば鍼灸柔整院で柔整診療のついでに、円皮鍼を貼り、棒灸をして、鍼灸治療を行いましたと請求されるようなことがあったら、鍼灸治療の形骸化に繋がる恐れが強いということである。
<用量反応対照*4>
こういう場合に行われる比較試験の対照が、表15のC「用量反応対照」で刺激反応対照とも呼ばれる。鍼灸治療でいえば、既存の研究でRCTではないけれども、それなりのエビデンスがある研究で通電療法が有効であったとして、その通電療法と置鍼療法の比較や単刺術ないし接触鍼法との比較がそれに当たる。また、鍼の本数や灸の壮数などがこの際の現実的な問題解明には重要な実験である。ただ、この用量反応対照実験で間違えていけないことは、例えば軽刺激(低用量)よりも強刺激(高用量)の方が有効であったから、この刺激を与える治療法は有効であるとはいえないことである。
対照にプラセボや無治療を用いたのでは倫理的に問題があるから、軽刺激(薬でいえば有効成分が少量の薬)を対照に用いて、充分な量の刺激(有効成分)を与えた治療と比較し、その刺激量に見合った有効性の違いが見いだせたら、その刺激そのものが有効であるといえそうである。しかし、その刺激そのものの有効性をいうならばあくまでもプラセボとの比較が必要であるということである。
何故駄目なのか?と思う向きもあろうかとも思う。もしこれで有効性がいえるのなら、倫理の問題もさほど重要でなくなるし、臨床での実験のしやすさも数段上がり、鍼灸治療の臨床現場ですぐにでもできそうであるからである。
鍼灸治療の現場で良くあることであるが、強刺激で悪化し軽刺激で良くなったり、少ない本数の治療の方がより有効であることは珍しくないし、そのように指摘している論文も見受けられる。そうすると仮に刺激量が強い方が有効性が高いといっても、そのことと刺激そのものが有効であるかどうかは別問題であるし、そもそも強刺激群と低刺激群及びプラセボの三群比較*5をしたらプラセボが最も有効であるかも知れないでしょう、という批判には答えることは出来ないからである。
<経済の問題>
このアフリカにおけるAZTの研究に対して、経済の問題が出てきたが、その際に更に指摘されたことは、確かにアフリカにおけるAIDSの問題は大きな問題であり、その中で特に母子感染の問題は悲惨であるからこれを解決することは重要な問題である。しかし、それよりももっと大事なことがアフリカにはある。それは毎年四百万人の子供が下痢で死んでいくという実態があり、一人の女性に百ドルかけて感染率を二十五%から数%下げることが出来ても、一人の乳児に三ドルかけて百%を0%にすることが出来て、四百万人の子供の大多数を助けることが出来れば、その方が遙かに人命救助の面でも効率的であるし、人道的であるという指摘である3)。こういうことを研究するのが費用対効果分析*5である。
限られた資源(資金・税金・健保収入など)を有効に利用せざるを得ない状況に置いて(通常の状況)、医師の裁量及び生命の尊さという一元的な価値観のもとで医療を行えば、財政が破綻し国がつぶれるのは目に見えている。ここでの議論は、四百万人の子供を助けるか、AIDSの母子感染を数%下げる方に使う方が良いのかということが俎上にのった、日本の場合には「EBMシリーズその3」でメバロチンに関して述べたように、NNTが六百以上もある薬剤に対し年間三千億円以上の資金を投入することは問題であり、もっと有効な資金の使い道があるはずということである。日本の開業鍼灸師全体の売り上げは分からないが、三千億円というと三万人の鍼灸師が年間一千万円を売り上げたという金額に匹敵し、この金額の近辺にその真の値があるのではないかと勝手に推測している。そうなると鍼灸の売り上げとほぼ匹敵し、メバロチンの精算・投与を止めれば鍼灸が健保に入れるかも知れない、ということにもなる。
鍼灸治療は「未病治」こそ、鍼灸の最大の価値であるという認識があるが、鍼灸の経済性もそれと同等の価値のあるものである。革命後の中国をはじめ、低開発国で鍼灸が普及し、WHOでは鍼灸は「当たり前の医療」になったのも、経済性が最も大きな理由である。今後は先進国においても、鍼灸の経済性は注目を集めるようになるであろう。NIH報告では、手根管症候群の治療では通常の西洋医学的治療では一人当たり約八千ドルかかるのに、鍼治療では千百ドルで済むという報告があり、4)また、先ほど出された英国医師会(BMA)報告でも、鍼灸の経済性についてNIHよりは若干言及されている5)。BMA報告によれば、費用効果(Cost-effectiveness)は英国医療への鍼の導入(ここでは鍼だけでなく補完代替医療全体を指している)について重要な論点になると述べ、経費節減が可能かもしれない領域として以下の四つをあげている。( )内は筆者(小川)による解説だが、本報告の訳者である筑波技術短期大学の津嘉山洋助教授に御教唆いただいた。
a、薬剤のコスト(鍼灸を使うことにより薬剤を節減できる)
b、GP(General Practioner:一般医)受診(受診率の減少)
c、二次的医療機関への紹介(GPの治療対象でなく、二次医療機関に紹介すべき病態の一部も、鍼治療によって管理できる可能性があるので。例えば慢性疼痛の神経ブロック適応に対して鍼治療を行う等)
d、西洋医学治療による有害事象の軽減(副作用の軽減)
そして、「プライマリ・ケアを実践する活動単位が、費用効果の高い医療を提供するという任務と一致した健康増進プランの概要を描くためには、鍼の費用と利益の両方に踏み込んだ質の高い研究が必要である」と結んでいる。
(社)全日本鍼灸学会でも、この鍼灸の費用対効果が優れているということに着目して、鍼灸の経済効果研究班を研究部内に来年度設立し、具体的なエビデンスの作成を目指すことになった。ここで、幾つかの重要な証拠が確認されれば、鍼灸の健保問題解決にも弾みがつくことは請け合いであるし、国民の鍼灸治療受療ニーズや鍼灸師への就業ニーズもより高まるに違いない。そういう意味で、学会の役員の一人としては鍼灸師会や学校協会などの諸団体から研究費を頂きたいと思っているくらいである。
<同等性試験*6>
また、米国でAZTの実用量のRCTが既に行われていて、その上で低容量の短期投与の有効性を確認する実験を行うならば、試験薬群には実用量のAZTを用い、対照に低容量のAZT投与群を設定して、実用量と低容量の同等性試験が行われるべきであり、その後に低容量投与群とプラセボ群のRCTが行われる手順でなければならないはずだ、ということで、やはり差別であるという指摘があったが、米国でならばそうであろうが、アフリカでは先ほどの経済性の問題があり、決して差別とは言えないだろうということで落ち着いたようである。
そして、この議論の中で最も面白かった指摘は、AIDSを対象としたAZTのRCTではプラセボの使用について倫理性の問題はやかましいほど批判されたり議論されたが、同じくAIDSを対象としてビタミンAのRCTを行った時には、プラセボについての倫理性の問題は全く指摘されなかった、ということだった。それはAZTは効く薬という認識とビタミンAは効かない薬という認識が無意識の中にあるためであるが、臨床試験や医療倫理の専門家の中でさえ、このような「思いこみ」をしているということが非常に面白かった。 つづく
<今日のキーワード>
*1 内部対照(Internal control):試験の対照とする患者(被験者)を実験群ないし対照群に(ランダムに)割り付け、その割り付けられた治療の違い以外は同じ規則・手順(プロトコール)に従って実験が進められる場合の対照を内部対照という。この場合の内部対照を同時対照(Concurrent cntorl)と呼ぶこともある。
*2 外部対照(External control):内部対照及び同時対照でないものをいう。 過去のデータと比較する既存対照(Historical control)や初診時の値と比較するベースライン対照(Baseline cntrol)があるが、このベースライン対照となる対象は、同じ患者なので内部対照という言い方もできるが、同時対照ではない。外部対照及び非同時対照は、対照とする被験者の集団に関してセレクション・バイアスを防ぎ得ないから、何れもエビデンスの質の質はかなり低くなる。また、同じ被験者を使ったベースライン対照も、時間的経過による自然治癒の影響や被験者が他の治療や養生を行った可能性を否定できないので同様にエビデンスの質は低くなる。
*3 費用対効果分析:臨床効果に対する費用についての分析であるが、その分析方法は一様ではなく、通常次の四通りある。
1)費用最小化分析(Cost-minimisation analysis):効果が同一或いは同一と思われている二つ以上の治療法を費用の面から分析するもの。端的に言えば効果が同じなら安い方がより良いということになる。
2)費用-効果分析(Cost-effectiveness analysis):効果が同一でないが、効果ないし健康改善度を同じ指標で測定して、効果の改善と費用を比較する分析方法。一般的に費用対効果分析といえばこの分析のことをいう。
例えば、
この場合に、一つの指標でなくQOLのような複数の指標で分析することもある。
3)費用-有用性(効用)分析(Cost-utility analysis):健康状態に関する介入(治療)の効果が複数の重要な次元(例えば、効果と副作用、前立腺癌の除去とインポなど)がある場合に損失と利益の両面で分析していく方法だが、この場合に、個人の嗜好やQALY(Qualty adjusted life year:生活の質に調整された余命)当たりの費用・利益に変換して分析していく方法。
4)費用-利益分析(Cost-benefit analysis):本文にあるように、限られた資金をAIDS治療薬のAZTか、小児の下痢対策のどちらに用いた方が国民全体の利益になるかを決定するときなどに用いる。
*4 用量反応対照(Dose responsive control):同じ種類の刺激(薬なら同じ薬)で、対照に低容量(軽刺激)のものを用いる場合をいう。置鍼と通電や、五㎜刺入と三㎝刺入も同じ類であり、灸三壮と五十壮も同様である。より強い方の刺激が弱い刺激よりも有効性が高かったから、その刺激(治療法)が有効であるとは言えない欠点があるのでプラセボに比べるとエビデンスの質はかなり劣る。しかし、プラセボの使用が倫理的に問題な場合には有用な方法。
*5 三群比較(3-arm trial):用量反応対照だけでは、その治療法の有効性をいうことが出来ないので、強刺激と低刺激の二群にプラセボ群を入れた三群で比較する実験のことをいう。通常は新しい治療法(薬)と標準治療(実薬)及びプラセボの三群で比較する。同時対照比較実験では最も良い実験方法。この中で、新しい治療法(薬)と標準治療(実薬)だけで比較する実験方法を実薬対照(Active control)或いは標準対照(Standard control)という。既にプラセボとのRCTで有効性が確認され、一般的に行われている治療や服用されている薬を実薬ないし標準治療といい、それを対照として新 しい薬や治療法を比較してその有効性をいうのであるが、この場合でもできればプラセボを入れた三群比較にした方が確実に新治療(薬)の有効性をいうことができる。実薬に対して、うどん粉のような効かない薬を使うプラセボは、non-activeな対照ともいわれる。
*6 同等性試験(equivalence trial):非劣性試験(non-inferiority trial) とも呼ばれる。元々統計による検定は、試験群と対照群の間に「差が無い」という帰無仮説を立てて、有意差があればその帰無仮説を棄却して試験群と対照群の間には「差がある」=「試験群は対照群に比べ有効である」というように展開していくのであって、基本的には差があるかどうかを検定していた。
そこでは、「差がある」とか「差があるとはいえない」ということができても、両者に「差がない」とか「同等である」、もしくは試験群は対照群に対してその効果は「劣ってない」ということは言えなかったのである。
それに対して、近年実薬(既存の薬)に対して劣らないことを証明する非劣性試験の方法が導入され「差がない」とか「劣ってない」ということが言えるようになってきた6)。
新薬の開発は、多大な研究開発費が必要であり、臨床試験も倫理的な問題や患者の協力が得にくいという問題がある。それに対して、新薬がでたらその類似の薬を開発するのはそれほど開発費はかからない。このような薬を「ゾロ」といい、その「ゾロ」に類似の薬を開発した場合には「ゾロゾロ」と呼ばれる。研究開発費がかからない分、単価も安くなり、病院サイドも薬価差益がでるので、患者から見えるところに置く薬の箱は、一流メーカーのものにし、実際に使用する場合にはゾロやゾロゾロを使うケースが多いばか りでなく、製薬会社も研究開発意欲が削がれた時期があった。最近では薬価を変えたり、ゾロやゾロゾロは新薬がでたら、一定期間発売できないようにするなどの工夫がされている。そして、ゾロやゾロゾロの臨床試験はこの既存の薬(実薬)との非劣性試験を行えば良いので、倫理性の問題や患者協力が得にくいという問題はそれほどではなくなるというメリットがある。
<参考・引用文献>
1)西條一止 熊澤孝朗 監修「鍼灸臨床の科学」 医歯薬出版 2000年9月
2)小川卓良 「患者からの相談シリーズ6癌(下)」医道の日本誌 55巻7号 p15-19 1996年7月
3)R.J.Levine 津谷喜一郎 他 「医薬品開発のグロバリゼーション時代における臨床試験の倫理」 臨床評価 26巻3号 p341-380 1999年2月
4)Margaret A.Naeser [Neurological Rehabilitation:Acupuncture and Laser Acupuncture To Treat Paralysis in Stroke and Other Paralytic Conditions and Pain in Carpal Tunnel Syndrome] NIH報告抄録集 1997年11月
5)津嘉山洋 他 訳 「英国医師会の鍼に関する報告書」 全日本鍼灸学会誌 第50巻3号 p527-532 2000年8月
6)森川 敏彦「統計ガイドラインと対照薬の選択」 EBMジャーナル第1巻 5号p130-135 2000年8月
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