1、はじめに
1)雑誌EBM創刊号を読んで
2000年ミレニアムの興奮が冷めた1月の後半、セイリン化成の大木部長が突然訪ねてきた。この人はいつも突然来るので困るのだが、この時に『EBM』という名前の雑誌の創刊号を持ってきた。そして「これ読みましたか?」と聞いてきたが、私は即座に「EBM* は嫌いだから興味ない」と答えてしまった。そしたら、「そういう人に是非読んでいただきたいんですよ」といって、後日雑誌を送ってきた。
大木氏は以前より、種々の仕事を一緒にしている関係で私のことは良く知っている。私は、工学部の管理工学科出身で統計などの応用数学を理解できるはず?であるし、EBM(Evidence Based Medicine)を理解できる立場にいる数少ないであろう開業鍼灸師であると彼は考えたのだと思う。
さて、雑誌EBM創刊号は、「EBMの誤解をとく」という特集であった。誤解をとくということは、巷に誤解だらけというか、反感というものが充満していることの証左という見方もできる。「やっぱり私だけじゃないんだ」という思いだった。事実、中を読むと世界的に名高いイギリスの医学誌の「Lancet」や科学誌の「Science」でさえもEBMの批判記事を掲載したということで、EBMに対する風当たりは想像以上に強かったことが窺える。
しかし、読み進めていく内に今までEBMに対して抱いていた概念が徐々に変わって行くばかりか、EBMでいうところの「科学的根拠」の科学的は、今までの科学(デカルト科学* )とは違い、私が思っている概念に近いことがわかり、むしろEBMのシンパになっていった。そればかりか、私が学術部長をしている、 (社)全日本鍼灸学会東京地方会で行ってきた『愁訴からのアプローチ』もそれなりのEBMであったということがわかった。そうなってみて鍼灸界を見回してみると、やはりEBMに対して反感や誤解を持っている人が沢山いて、今までは何にも気にならなかったのが、非常に気になってきた。何かアクションを起こすべきだと考えた。そして、開業鍼灸師として、また鍼灸師教育に関わるものとして、そして、EBMの専門家でもなく素人でもない中間の立場の人間として、EBMを考え、そして開業鍼灸師の方々や学生諸君に紹介したいという気持ちになったのである。それが本稿の目的と執筆の動機である。
また、あえていえば、EBMを誤解し嫌悪感すら抱いていた人間が一冊の本を読んでから次第に傾倒していく過程を述べることによって、読者諸兄の疑問に答えることになるとも思ったからでもある。
2)EBMが嫌いだったわけ
<統計的に価値があるものだけが論文としての価値なのであろうか?>
EBMは「(科学的)根拠に基づいた医療」と訳されている。科学的という言葉はあったり無かったりなので、( )で括っておいた。EはEvidenceで、直訳すれば「証拠」という意味である。それでは今までは、根拠や証拠に基づかない医療をやっていたのかという批判が当然起きる。決してそうではないだろう。ならば今更EBMというのはちゃんちゃらおかしいということになる。このことについては後述するが、取りあえずEBMでは今までの医療でいうところの「根拠・証拠⇒臨床研究論文」は、統計的には問題があり過ぎて正しい根拠となっていないという主張があり、「もっと統計的に厳密な臨床研究をすべきである」ということばかりが言われてきた。
そこでは、二重盲験化*(DB)やRCT*(無作為化対照試験)でなければ研究価値がないとか、様々な統計手法や実験計画のことのみが声高々に言われてきたような気がするし、そればかりか過去の様々な研究が俎上に乗り、その研究の独創性や新しい指摘が評価されず、その統計的問題点ばかりを批判され、ひいてはその論文は無価値であるかのように言われてきたようにも思え、それで良いのだろうかという想いを持ったのは私だけであろうか。
実際に鍼灸臨床研究を行う際にDBやRCTが簡単に実行できれば問題はないのだが、医学臨床研究でもその実行は難しいのに鍼灸治療の場合は、プラシーボ(偽薬)の設定が非常に難しい(偽鍼灸治療をどうするか)とか、対照群と試験群の2群に分けて同じような患者を沢山集めることが難しいとか、薬を与えるのに技術的問題はほぼないのに鍼灸ではその治療技術に差がでるというようないろいろな大きな問題が非常に沢山あり、DBやRCTが実行された研究はほとんど皆無であった現状がある。
<NIH報告について>
また、EBMに基づいて1997年の米国NIH(国立衛生研究所)の専門家委員会で鍼治療の有効性を認めた件でも、認められたのは手術や歯科治療後の痛みの除去と癌の化学療法や妊娠に伴う吐き気の治療であり、それらを報告した論文の統計的価値が高かったから認められたのである。そして、統計的価値が低かった腰痛、喘息、筋肉痛、頭痛や生理痛、テニス肘、脳卒中のリハビリ等の現実に広く行われている(患者のニーズが高い)鍼灸治療の有効性は認められず、役立つ可能性だけが認められたのである。そしてその評価基準は統計的価値である。
確かに統計の専門家がいうように、統計的にしっかりしてない論文は問題があり、信用できない部分もあることは事実である。このことは決して忘れてはならないが、それだけで論文の価値が決まるのだろうかという疑問は残る。
<鍼灸と二重盲験化>
確かに薬効検定においては、臨床面における心理効果は大きいだろうし、そのことによって元々もっている自然治癒力も大きくなるだろう。そして、それらの心理効果や自然治癒力は、はっきりしない曖昧なものでもあるし、薬効とは無関係なのであるからそれを排除したいという気持ちは充分に分かる。
しかし、鍼灸治療ではどうであろうか。鍼灸治療は元々治療に時間がかかり(薬は渡すだけ)、治療しながら問診をしたり、触診・切経・取穴など患者の肌を触りつつ治療していくわけであるから、実際に刺鍼したり施灸するだけが治療でないだろうし、盲験化ができにくい治療法でもある。
鍼灸治療では患者に針を刺されているか否かを知らせないようにすることや、灸をされているかどうか分からないようにすることは非常に難しいことだということは誰でも分かることだし、薬効検定の二重盲験法では存在しないことであるが、治療穴を決める者と治療をする者とを分けることも必要であろう。しかし、これが思ったより難しいこと(理論的に経穴を決める場合と切経などで決める場合があるし、理論的に決める場合でも治療穴を決めた者の思い通りの取穴・治療方法で治療する者が行うとは限らない等)だし、診断をした者と治療効果を測定する者が違えば西洋医学と違って同じものを診ているとはいえない等の様々な問題がある。
確かに一部の研究者が指摘するように、鍼灸治療において盲験化の実行は不可能ではないとは思うが、盲験化することのために実験や研究の本質や意図が全く変質してしまうデザイン(実験計画の組立)にならざるを得ない恐れはないとはいえない。
また、「臨床は丸めである」という立場もある。「丸め」というのは、単に個々の効果の総和でないという意味で、
治療効果=心理効果+自然治癒力効果+治療の有効性+α(未知の効果)
ではないのではないかということで、それぞれの相乗効果(単に加算するだけでなく、組み合わせによって加算する以上の効果を得ることで、漢方薬には各単味の効果の総和ではなく相乗効果があるといわれている)も考える必要があるのではないかということ。もしそうであるならば、全部丸めて評価する方が正しい結果を得られるということになる(反還元主義* )。
また、臨床というのは、例えその治療の有効性はほとんどなくとも、治療行為を行うことによって心理効果や自然治癒力が惹起されるのならば、それはそれで立派な治療ということになるのではないだろうか。
こんなことを考えて、どうも盲験化というのは鍼灸治療に馴染まないばかりでなく、そういう方法では鍼灸治療の良いところは引き出せないのではないかという想いでいたので盲験化には一種のアレルギーを感じていた。
もちろん、盲験化をただ盲目的に反対しているわけでもないし、盲験化された素晴らしい価値ある鍼灸研究論文が沢山輩出されればそれで良いわけであるが、現実にはほとんど無いのが実状である。
鍼灸臨床研究で、盲験化された研究がほとんど無い理由の第一は盲験化が難しいということであろうが、第二に多分、盲験化された実験研究は色々試みられているのだが、ポジティブな(有効性を示すような)結果にならないことが多いのではないかとも推測している。残念ながらネガティブな(否定的な)研究結果はあまり発表されないし、論文にもならないので目に触れることが少なく、知る機会がないからである(このポジティブな結果だけが目に触れ、ネガティブな結果は公にならないために、治療のマニュアルなどを作る際にポジティブな結果だけを集めて作成すると偏った結果になることを出版バイアス* という)。
母校の大学の統計学の教授は、「統計なんか信じてない」と公言しながら統計学を一生懸命教えていた。要するに「統計は非常に有用であるが、統計で全て真実が分かると思うなよ」ということで、意思決定論的立場をとっていた。意思決定論的立場というのは、自分が何か意思決定をするときに(例えば、腰痛の鍼治療をする時にどの経穴を使うかどうかを決めるときに)統計を使って分析し、その結果に従って意思を決定するが、それが真実を表しているとは夢々思わないということである。(この先生は、奇経の入江正先生と九大で同級生だった!)
この視点は非常に大事であるが、医学においては、または昨今の鍼灸学研究においても統計的に有意であればそれがあたかも真実であるかのような記述が多くあり、そのことが私の医学統計アレルギー(盲験化やRCTも含めて)に繋がってたように思える。「所詮統計。されど統計」である。
しかし、EBMはどうやらそういう古い医学の立場を脱しているらしい。
(続く)
<今日のキーワード>
*EBM:Evidence Based Medicine (科学的)根拠に基づいた医療
定義:個人の患者のマネージメントにおいて、現在の臨床医学研究から得られる最前のエビデンスを良心的にそして思慮深く使っていくことである。
Sackett DL 1996 『根拠に基づく医療』 久繁 哲徳 監訳 じほう社
*RCT:Randomised Controlled (clinical) Trial 無作為化対照(臨床)試験
患者のグループを無作為に実験群と対照群に振り分ける。そして、これらの群について関心ある変量(血圧や体重など)や転帰(死亡とか退院など)を追跡する実験研究。
実際にある新しい治療の有効性を確かめたいという場合に、単独で治療してその成績を示すだけでは例えば従来の治療法と比べて良いかどうか分からない。
確かに従来の治療法でも、その治療成績を表したデータはあるのだろうが季節の違いや社会情勢の変化、患者嗜好の変化等での影響が皆無とはいえない。
そこで、新しい治療と比較対照となる治療(例えば、偽薬や従来の治療法など)を同時に行う必要があるが、新しい治療を受ける患者と従来の治療を受ける患者の間に何らかの質の差(例えば年齢や重症度などで)が生じてしまっては、その実験結果が新しい治療の有効性を示しているのか、両群の患者の質の差が結果に現れただけなのかが分からない。
両群の患者の質の差がないように、また、研究者が意識的であろうと無意識であろうと、作為的に両群への患者の振り分けを行った可能性を指摘されないようにするためにも無作為に振り分ける必要がある。
このように患者を無作為に実験群と対照群に振り分けて同時に治療を行い、その結果を比較検討する研究のことをいう。
ただし、患者数が少数の場合、無作為に分けるとどうしても偏り(バイアス * )がでる。このために、治療結果に大きな影響を与えると思われる重要な患者の質(例えば年齢や重症度など)別に分類し(層別)、その中で無作為に割り付ける方法が取られたりするが、EBMではメガトライアルといって多数の患者を対象としたRCTを高く評価し、以前良く行われた少数例でのRCTの評価は低くなった。
RCTでは、多数の患者の参加を必要とするためにその管理上の問題や、偽薬を用いるときなど、治療を求めてきた患者に偽薬を与えて良いものかどうかの倫理上の問題などその実施に当たっては多くの困難が伴う。
*二重盲験化(Double blinding:最近ではblindingの代わりにMaskingともいう)
実験をする際に、被験者(実験の対象となる患者等)が自分が新しい治療法の方なのか、それとも偽薬や古い治療法なのかを知っていては治療意欲や心理効果の影響なども違うことが考えられるし、治療成績を測定する者においても被験者がどちらなのかを知っていては先入観をもって測定する恐れがある。またそれは、結果を分析する者においても同様の問題がある。これらの問題を排除するために盲験化を行う。
すなわち、被験者が自分はどちらの群なのかを知らないようにする(一重盲験化)こと、被験者と測定者の両方が知らないように実験を設計すること(二重盲験化)、その上に分析者も知らないようにすること(三重盲験化)の三種がある。一般的には二重盲験化ができればよいとされている。
*プラシーボ:Placebo 偽薬 プラセボともいう
通常うどん粉等を使って被実験者にはあたかも薬を飲んでいるかのように思わせて、非試験群である対照群にも偽医療行為を行い、試験群と同様の臨床心理効果を与えて、両群の心理効果の影響の差を無くし、純粋に薬の影響だけを測定するために行うもの。プラシーボとは満足させるとか喜ばせるという意味のラテン語が語源。
*デカルト科学:Des-cartecian Science
事象を分析的に、論理的に追求して、普遍性のある法則を求めて行く科学の方法論で17世紀フランスの哲学者のデカルトによって提唱された科学的方法論。近代合理主義の源でもある。
そのキーワードは、
普遍性:あらゆる場で適応できること、例外や偏りがないこと
合理性:理論的であること、理論的に説明できること
客観性:誰でもが共通に理解できること、目で見えたり数字で表せること
再現性:同じ条件下では、その結果が再現できること
唯物論:形に現れるものを重視し、心や感性、経験というような曖昧なものは排除する考え方
※還元論:全体は部分の総和で成り立っているという考え方、還元主義
等であり、現在の多くの科学の元になっている考え方。
最近では、デカルト科学でないニューサイエンスが多数登場している。代表的なのは、ホロン、カオス、ファジィー、複雑性の科学など
*バイアス:bias 偏り
対象者の選択、データ収集・分析・解釈・発表等の際に起きる可能性があり、かつ真実の結果を誤らせる一連の偏りのこと。
良い結果だけが論文化され、それだけを集めて検討して出した結果には、出版バイアスという偏りがある可能性がある等。
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