(4)EBMへの誤解-総まとめ
前号までに、EBMの誤解について解説してきたものを列挙すると、以下のようになる。
① RCT(ランダム化比較対照実験)で行わなければエビデンスにならない-という誤解?
② 今までだってEBMではないか、という誤解?
③ EBMで得られた結果をそのまま、目の前にいる患者に適応できるわけがない-という誤解
④ EBMは数値化医療を目指し人間性を奪うものではないか-という誤解
⑤ EBMは全ての臨床上の疑問にただ一つの正解を出してくれる魔法の杖みたいなものである-という誤解
⑥ EBMは今までの医学を否定する-という誤解
⑦ EBMは製薬会社の宣伝文句-という誤解
⑧ EBMは医療費削減戦略の一環ではないか-という誤解
⑨ EBMは学者や臨床疫学の専門家が行うもの-という誤解
この中で④は、題名だけ記したので少し解説すると、確かにEBMではRRRとかNNTとかの様々な数値が出てきて、あたかも数値化医療を目指しているかのような誤解を与えそうである。しかし、不確かな経験と医学(鍼灸・古典)理論だけで実際に効くかどうかわからない医療を行う方が「人間性」という指標では問題で、少しでも患者にとって臨床上有効性が高いという証拠がある医療を行う方が「人間性」があるとは思いませんか。そしてウイリアム・オスラーの「医学はサイエンスに基礎づけられたアートである」という言葉をもう一度噛みしめればこれが誤解であることがわかるでしょう。
また、⑨はその3の今日のキーワードのところで少し触れただけであったので少し解説すると、元々EBMは疫学研究から発展してきたもので、EBMとしての歴史はまだ10年ほどしかない。疫学研究は、公衆衛生学とか保健管理学等の医学の中でも社会学的な分野で行われてきていて、その研究者の多くは統計学やコンピューターの専門家であったりして、臨床とはかけ離れたものと誤解されやすいこともあった。しかしその後、疫学的研究の中に、臨床疫学という分野が確立してくるとともにEBMの考え方が台頭してきたのである。だから今もって臨床家には関係ないと思っている向きもあるということだが、前号でも述べたように、あくまでも臨床に応用して初めて価値が生きてくるものである。
さて、以上の誤解の他にまだ沢山の誤解があるので列挙していく。
⑩ EBMは学問研究であって、臨床的研究ではない-という誤解?
この誤解も、⑨と同質の誤解であり、EBMはあくまでも臨床の問題をテーマとしている。
⑪ 統計的に厳密にすればするほど、現実から遊離する。だからEBMは現実的で無い-という誤解?
以前は少数例を対象としていたので、厳密にする必要があり、そのために現実から遊離するというのは正しい指摘であろうが、現在は多数を扱うためにそ の実験で対象となった人は、人種等は別にすると特別な人というわけでないのでこの指摘は当てはまらないと思うが、実験の対象者と目の前の患者は所詮違 うわけで、そこに医師の裁量で補うということであるからやはり誤解である。EBMでの厳密性と対象を厳密にするということは意味が違う。
⑫ 治療を標準化してしまうと、治療者の独創性を失われ、ひいては治療学の発展が無くなる-という誤解?
当然の指摘だと思われるが、標準化の意味というのは誰でも最低限現在最良と思われる治療を受けること(施療する)が出来るようにするということと、新たな知見に基づいた治療法が開発されたときの対照群(プラセボでなく)とすることの意味があり標準化の意義は小さくない。そして、いずれにしても医師の裁量(独創性も含む)が必要な部分は大きいわけであるから、この指摘は誤解であるとともに、今までは標準的な治療法さえ示せなかったために「何でもあり」ということの方が問題ではないだろうか。
⑬ EBMにより、誰でも簡単に治療ができるようになる、という誤解?
これも医師の裁量と目の前の患者とエビデンスの対象となった患者は違うということで誤解であることは明白である。よって、誰でも簡単に治療が出来るわけではないが、しかし、エビデンスが揃えば揃うほど治療する立場では悩みは少なくなるだろうことは容易に想像がつく。
⑭ EBMは日常診療や毎日の研修では使えないのではないか、という誤解?
確かに、診療する立場ではいちいちMEDLINEで検索することは時間的に難しいが、コンピューターとインターネット及び二次資料のcd-romがかなり身近になって、米国ではワゴンにコンピューターを積んで回診する医師がいるという位なので慣れてくれば日常診療でも使えるようになるだろう。
鍼灸治療の場合には、まず二次資料を作らない限りは日常診療では難しい。
⑮ EBMでいうところの質の高いエビデンスを得ることは鍼灸ではできるわけがない、という誤解?。
現在の所、質の高いエビデンスがほとんどないというのが現状であるが、EBMでは、背景となる理論よりも実際に有効かどうかを実験するということなので、時間とお金さえかければ質の高いエビデンスを得ることは可能である。
すなわち、鍼灸の理論的根拠を示すことよりも実現可能でかつ臨床にとって実際的であるということである。
4、鍼灸治療学をより質の高いエビデンスで武装するには
(1)「つくる」人、「つたえる」人、「つかう」人
日本のコクランネットワークの代表である東京医科歯科大学助教授の津谷喜一郎氏(全日本鍼灸学会国際部長でもある)より1冊の本が届けられた。『わかりやすいEBM講座』1)という題名で厚生省健康制作局研究開発振興課医療技術情報推進室が監修しており、津谷氏も幾つか執筆している。この中で津谷氏がEBM及びコクラン共同計画について説明した項目の中に非常にわかりやすい項目があったので紹介する。
氏はEBMには「つくる」人、「つたえる」人、「つかう」人の三つの立場があると説明している。つくる人は、エビデンスをつくる人のことで、臨床研究を行う人である。臨床研究を行う医学者や臨床疫学の専門家などがこれに当たる。「つかう」人は、正に臨床家である。「つくる」人の臨床家は、大学や研究所レベルの人でなくては難しいことが多いが、「つかう」立場の臨床家はあらゆる臨床家がその立場たり得る。そして、その間にある「つたえる」人がEBMの核となる立場で、多数のエビデンスを吟味してレビューやガイドラインなどの二次資料を作成する人達のことである。コクラン共同計画は正にこの「つたえる」人達にあたり、臨床疫学の専門家が主に担当している。
この「つたえる」人のことだけを考えると、臨床研究は統計的に厳密にすることだけではないだろう等という様な様々な誤解や批判が出てくるが、それは臨床家が正しく臨床に応用するために行っているという立場になれば自ずと理解できる。今までは、「つくる」人が「つかう」人及びその対象となっている患者のことをあまり考えずに、「真理探究」及び医学のために研究していたのを、「つかう」人の立場を考えて実際に役に立つ臨床研究を行うように「つたえる」人が吟味し、「つくる」人を指導していると考えるとわかりやすい。
そして、臨床疫学はこの「つくる」人と「つたえる」人の領域で、EBMはこれに「つかう」人の立場を包含した概念であるということが出来る。
(2)科学的認識論
津谷氏は、WHOで様々な伝承医学を見聞した経験もあり、EBMでは西洋医学も鍼灸・漢方もそしてパプアニューギニアのウイッチ(呪術医)も全く同等であると説いている。前号の名郷氏と全く同様の説明である。EBMで高い評価が得られたら、呪術や祈祷も立派な医療であり、どんなに優れた理論的な裏付けがあってもEBMで評価されなければ臨床的には無価値であるということである。
これは、メカニズムがわからない=人体の中での機序は不明=ブラックボックスということであり、武谷三男氏の三段階論が思い出される。
武谷氏は世界的に高名な物理学者であり、原子力研究三原則等で有名であるが、武谷三段階論でも有名である。実は氏はこの4月に88歳で亡くなられた。正直言って未だご存命だったのかとびっくりしたものである。何故ならこの三段階論は、三十年以上前私が学生だった頃に知ったからである。新聞に依れば、この三段階論は京都大学の卒業論文だったという。正に天才だった。
氏の三段階論は図4の様になっている。科学的認識は本質論的レベル、実体論的レベル、現象論的レベルの三段階からなっていて、本質論的レベルとは本質的・普遍的に全てが理解された状態を意味している。すなわち何かをして(in)、その結果もわかっていて(out)、そのメカニズムが全てわかっている状態で、inをいくら変えてもoutがわかるものをいう。実体論的レベルとは、普遍的ではないが(ありとあらゆる場で適応できないが)、ある限られた場ではそのメカニズムがわかっていてinに対応してoutがわかるものをいい、それ以外の場ではoutがわからないものをいう。ちょっと古いけれど通常の世界ではニュートンの力学が通用するけれど、光の速度に近い場ではニュートン力学では全くだめでアインシュタインの相対性理論を用いなければならないということであれば、相対性理論が本質論的レベルであり、ニュートンが実体論的レベルということになる。もちろんこの立場はその時点での科学的認識レベルでどんどん変化するものであり、素粒子理論が出て相対性理論が実体論的レベルに落ちていき、現在ではその素粒子理論でさえ…ということである。
さて、では現象論的レベルとはどんな状態をいうのかというと中のメカニズムは全くわからないが、何かをすれば(in)、その結果(out)が出ることがわかっている状態のことである。例えば、鍼をする(in)とサーモグラフィーで体温が上昇すること(out)がいつも起こることがわかっているが、どうしてそうなるのかがわからない(メカニズムがわからない)というようなことである。このように、入り口と出口はわかっているが、中がブラックボックスでメカニズムが不明な場合に科学的認識といえるかどうかを学生諸君(鍼灸やPT科)に問うと、ほとんどが科学的認識とは言えないと答える。
以前プライマリィ・ケア学会で何度か鍼灸の講演をしたが、その際必ずと言っていいほど出てくる質問は「鍼灸の理論的裏付けはあるのか」「そのメカニズムはどうなっているのか」であった。その都度「では西洋医学ではあるのですか」と逆に質問すると、色々おっしゃられるが、「それはin vitroの話ですよね、in vivo 特に人体内のことは何もわかっていないのではないですか、それは鍼灸も同じですよ」と切り返すと皆さん黙ってしまう。大体鍼にin vitroの研究などは元々ないのである。試験管に鍼刺しても何にもならない。元々動物実験を含めてin vivo の研究しかないのが鍼灸である。
学生諸君の反応も全く同様である。基本的には鍼灸研究も西洋医学の研究も臨床面で見れば全く同様に現象論的レベルなのである。ただ、西洋医学の研究の方が同じ現象論的レベルであっても、RCTを行うとかDB(二重盲験法)を行うなどで鍼灸研究に比較して研究レベルが高いのが大きな違いである。
多分、生体実験が出来ないという当たり前の制約の元では、臨床医学研究は現象論的レベルから脱することは当分(それもかなりの未来まで)出来ないのではないかと思う。そして、その現象論的レベルであることを決して恥じる必要は全くない。臨床的に役に立てば良いのである。森羅万象、複雑な対象が多く、それらにデカルト流の要素還元主義が通用する場合はむしろ少ない。宇宙空間という攪乱するものがほとんどない状況では火星の一点にロケットをぶつけることは出来るだろうが、風が複雑に舞うビルの上から落ちるハンカチーフの落下点を予想することは全く出来ない。流体力学などの理論は構築されているがハンカチなどへの応用が全く出来ない。この点を反省して出てきたのがファジィをはじめとする様々なニューサイエンスである。ファジーは理論的であるよりも実用的であること、合理的(理論的)であるよりも合目的(目的にかなう:実利的)であることを目指している。はじめから最後まで現象論的レベルである。電気製品をはじめ様々な分野でファジーは貢献している。しかし、理論を重視する人々は、役に立とうが立つまいが理論的であることにこだわり、理論的でない(経験や直感も重視する)が遥かに人のために役に立っているファジーを毛嫌いする。多分医学の世界もこの構図は同じであろうと想像する。生理学・病理学・生化学等の医学を重視する人は、それらの結果と反対の結論が出ることが多く理論的なことよりも臨床効果のみを重視するEBMを嫌い続けるのではないかと思われる。
(3)鍼灸とEBM
鍼灸においてエビデンスは現在日本にどのくらいあるのだろうか?1996年(社)全日本鍼灸学会京都大会が京都国際会議場で開催された。このときのメインテーマは基礎と臨床との対話であり、基礎的な鍼灸研究成果を如何に臨床に応用するのかということで様々な発表があったが、その中で鍼灸最前線と称してパネルの展示があった。当時の鍼灸研究の最先端の成果がその後『鍼灸最前線』2)という本にまとめられて医道の日本社より出版されたことは記憶に新しい。「そうだ日本にも数々のエビデンスがあるではないか」と思われる方も少なくないと思うが、実はこれらのほとんどは基礎研究の成果であって臨床的なものはほとんどなく、EBMでいうところのエビデンスにはなっていない。
今、私が目の前に手にしている本は『アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠』3)という題名の本で、米国医師会編である。副題として「民間療法を正しく判断する手引き」となっている。この本は、1993年に米国で出版されたものを2000年2月に日本で翻訳出版された。訳者は山梨医科大学の田村康二教授で『メディカル朝日』の本年4月号にこの本の紹介記事4)が載っている。
これはインタビュー記事で「民間療法を徹底検証し、正当医療に取り入れる」というテーマで、「アメリカの姿勢を見習うことが大切」という副題がついている。
このインタビュー記事によると、米国では国民の7割以上が代替医療を受けているという実態があり、10年くらい前から政府が代替医療に力を入れだしたという。NIH(国立衛生研究所)に代替療法部というセクションをつくったのもこのころで良い代替医療には研究費を出そうという政策に切り替えたという話である。そして、この本は、代替医療に白黒を付けるための種本ともいうべき本であるが、甲論乙駁の研究及び医師会のコメントが載っていて、読者(原著の対象読者はアメリカ医師会会員)が自分で判断できるように書いてあるのが特徴。鍼治療はそのトップにあげられていて、アーユルベーダ、カイロプラクティック、信仰による癒し、ハーブ、ホリスティック医学、ホメオパシー、オカルトなどの様々な療法が続き、癌やAIDSの様々な民間療法、ビタミン療法、栄養食品、補助食品等の食品群、診断面では毛髪テスト、良導絡(電気針と記載されているが内容は良導絡テスト)など、その他様々なダイエット療法、バイオフィードバック療法、瞑想まで非常に広範囲に渡っている。
田村教授は、これからはハイテク(高度技術を応用した)医療よりもハイタッチ(介護や看護などの手当)の医療が求められると述べ、東洋医学は正にその部分で素晴らしいものがある、特に人間を全人格的に診ようとする治療法だと評価し、その安価さを特に価値があると述べている。特に安いというのは大きな価値であると述べ、うがい薬を使うより紅茶でうがいした方がインフルエンザウイルスに効果があるという東京の国立予防医学研究所の科学的論文を紹介している。そして、経済性の問題もあり民間療法でいいものはどんどん取り得れて、同時に患者さんに対して代替医療法の情報を正しく提供して良いものは良いが悪いものは悪いときちんと指導することが重要と述べている。
さて、原本の方であるが、ここでは代替医療(alternative medicine)と代替療術(alternative therapy)をきちんと区別している。代替医療とは正当医療に変わるべく科学的の証明された医療と定義し、科学的にその効果が証明されてないものは代替療法と定義し鍼治療も代替療法であると位置づけている。しかし、鍼治療は西洋医学と考えが基本的に違うのであるから、西洋医学的な知識と考え方のみで反対するのはおかしいと述べ、従来の医学とは違う医学的システムの立場から医療を提供しているのだということを理解しなければならないとまで書いている。そして、鍼治療に関する部分であるが、鍼治療に対する批判的な論文は17記載されており、鍼治療を弁護する論文は2つのみである。ただいずれも論文の要約だけであるので、それらの論文の質は推し量ることは出来ない。アメリカ医師会の解説には、FDAによれば検討中であると記載されている。
この本の第一版は1988年に出版され「代替療術(証明されていない方法と健康詐欺)」という題名で、この本はその第二版にあたるとのことである。第一版は、鍼治療に対して非常に否定的な論調であったと記憶しているが、第二版ではそれがかなり和らいでいるような気がする。そしてNIH報告が数年前に出版され、米国では鍼治療に益々好意的になっている現状を見ることが出来る。
(4)日本のエビデンスの現状
(社)全日本鍼灸学会東京地方会では、10年ほど前より『愁訴からのアプローチ』と称して、症状から鑑別・診断・治療法までを視野に入れた体系的な診断・治療システムの構築を目指してきた。その方法は、過去の文献(学会誌・本誌等の鍼灸医学関係雑誌・鍼灸学の単行本・医学書・メディカル朝日などの医学関連雑誌等)の調査と内科外来担当医及び東京地方会学術部員の経験・治験を元に作成してきたわけである。また、数年前よりは『愁訴からのアプローチ:運動器シリーズ』と称して、腰痛・膝痛・肩痛などのいわゆる運動器疾患愁訴に対して研究してきた。その際には愁訴からのアプローチの文献に増して、『医学中央雑誌』のCD-ROMから文献検索をして集めた文献をも対象とした。この通称医中誌は、医学関係はもちろん、鍼灸関係の雑誌もほとんど網羅されていて、本誌はもちろん、経絡治療誌、経絡鍼療誌、日本伝統鍼灸学会誌等の古典派関係、良導絡自律神経雑誌、中医臨床誌等ほとんど全ての学会誌・雑誌が含まれている。ただし、日本の文献しかないことと、1987年以降しかcd-rom化してないことが問題で、1986以前の文献については、検索文献からの孫引きで補うことしかできないし、海外文献については語学力と時間の制約の問題で無視せざるを得なかった。
それでも、例えば「腰痛」の場合、「腰痛」、「腰痛症」、「腰の痛み」、「腰椎椎間関節症」、「腰椎椎間関節炎」、「腰椎椎間板ヘルニア」等と「鍼灸」、「鍼治療」、「鍼灸治療」、「鍼」、「灸」等をマッチングさせて検索すると鍼灸関係の雑誌だけでなくあらゆる医学誌を含んで数百の論文が検索できる。しかし、その中には抄録のみのものや(学会誌には抄録号が含まれるため、特に全日本鍼灸学会誌の掲載では、論文数よりも圧倒的に抄録が多かった)、一例報告が非常に多く学問的な価値(エビデンスの質)がほとんどないものが大多数で、それらを除くとせいぜい数十の論文しか残らなくなってしまう。そして、その中から論文の価値を見極めて、良い知見がないか探して行くわけだが、個人の主観で探すと偏る恐れが多分にある。そこで一つの論文は最低2人の学術部員が読むこととして、論文の価値の見極めについては表2のような評価表を作成し、表3の評価リストにあるような基準で個々に評価して持ち寄り、一つ一つの論文を全員で読む価値があるかどうかを討論し、読む価値があると思われる論文については全員で読んで再討論してその結論を採用するかどうか決めていった。
この過程が、本誌4月号のその1における「それなりのEBMであった」ということで、海外論文は見てない、1986以前は孫引きだけという制約の中では当時尤もEBMらしい研究(つかう立場として)であったと多少の自負があるが、残念ながらエビデンスといえるような臨床研究はほとんどなかったのが現状である。臨床研究であるのに治療に使用した経穴名や使用鍼、治療法などの記載が一切無い論文もあり、有効性の判断基準などの記載もある論文の方が遙かに少なく、症例数や対照群の設定、無作為化の有無とその方法、層別基準などの統計的問題以前で論文の形式になってないものが非常に多かった。
結局、モザイクみたいに種々の知見を重ねてみたり、使用穴については使用頻度が高いものを上げてみたりして、運動器疾患の症状別に治効機序・鑑別・診断・治療・養生指導までの体系的なものを作成した(東京地方会の講習会資料)が、残念ながら質の高いエビデンスによるものではなかった。そこで、大規模ではないけれど、例えば通電と置鍼の違いがあるのか、局所の刺鍼と手足の刺鍼での効果の違いは等を研究テーマとして、部員ごとにそれぞれの施設で行うように計画したのであったが、なにぶん症例数が得られなく途中で頓挫した事情があった。
しかし、本年の(社)全日本鍼灸学会兵庫大会の抄録6)をみると以前に比べてレベルの高い研究が散見できるので、今後は大いに期待できるのではないかと思っている。
(5)EBMの手順
図5はつかう立場でEBMの手順を示したものである。東京地方会のでの仕事は、図5①の眼前の患者ではないけれども、例えば腰痛症に対する鍼灸治療をテーマにして、②文献検索して、③の文献の批判的吟味をするという手順であった。最後の④眼前の患者に適用することについての妥当性(外的妥当性*1)についての判断は、臨床家の裁量(経験・直感・患者の嗜好などを考慮して)ということになる。
それに対して③の文献の批判的吟味は、いわゆるエビデンスの質を評価すること(内的妥当性*2ともいう)で、あえて批判的と名付けられている。多分想像するに、権威者や自分の教室の教授が書いた論文などを「吟味」することなど到底許されない状況にあるし、そういう論文は自然と好意的に読んで素直に受け入れてしまうことが多いということを考慮して、あえて批判的に読みなさいということのようだ。実際、重箱の隅をつつくような批判がされるし、それが要求される。そして、その批判的吟味に耐えて初めて質の高いエビデンスとして認知されるということである。
ここでは、1)バイアスや交絡因子*3を取り除くような研究デザインがされているかどうかの判断と、2)統計的手法が正しく適応されているかを検討することによってその価値を判断する。
バイアスはEBM名付け親のSackett によれば56種類もあるということであるが、これらを全て排除するような実験計画を立てることはほとんど不可能であろう。代表的なバイアスを以下に示す。
1、選択バイアス:何らかの方法で症例(患者)や対照群を系統的に選択する場合に起き得るものをいい、入院患者のみを対象とした場合に、同じ疾病でも入院してない患者とは背景が違い、入院患者のみのデータではその疾患を代表することはならないというようなもの。希望者ばかりを対象とした場合とか、同意を得て実験をする場合にもいえる。希望者や同意者は、希望しない人等に比べて健康に対する意識や研究に対する態度も違うことが容易に想像でき、そのことで実験結果が偏る(バイアスを生じる)可能性があるから。
2、情報バイアス:推定値や測定値が偏ってくるバイアスで次の観察者バイアスや面接者バイアスもこの一種
3、観察者バイアス:観察者の文化的観点や被験者との関係などによって生じる恐れのあるバイアス。いうなれば観察者が変わることによって結果が変わるようなことをいう。
4、面接者バイアス:3と同様なバイアスであるが、面接者の背景の違いにより質問項目の選択が変わったり、回答の判断が違ったりすること。
5、出版バイアス:その2で解説済み
6、入院率(Berkson)バイアス:対照群をその対象疾病以外の疾病での入院患者とすると対象疾病と他の疾病での入院率(入院をするかしないかの判断で の重症度など)が違うような場合に起きるバイアス。例えば急性虫垂炎で入院する場合と足の骨折で入院する場合の違いなど。
7、リードタイム(leadtime)・バイアス:検診による早期発見で診断を早めた分、見かけ上生存期間が長いことなどをいう
8、レングス(length)・タイムバイアス:検診では進行速度が遅く予後の良い癌をより多く発見しやすいく、進行速度が速く予後不良の癌は当然発見されにくくデータにならないこと等をいう。過剰診断もこの一種。
9、セルフセレクション(Self Selection)・バイアス:検診受診者には健康意識が高く、疾病予防に寄与する生活習慣をもつ人が多い、よって、検診受診者と非受診者で癌による死亡率が違う場合に、検診のためなのか生活習慣によるものなのかわからないことなどのことをいう。
つづく
<今日のキーワード>
*1 外的妥当性:論文の結論が妥当であれば、その結果を眼前の患者に適応して行くわけであるが、論文での対象者と眼前の患者とは特性が違い、結論が当てはまらないかもしれない。論文の結論を他の対象者に適応するときの妥当性の判断を外的妥当性という。図5では④のステップに対応する。
*2 内的妥当性:論文の質、エビデンスの質のことで、言い換えれば研究対象とした患者に対して結論が妥当かどうかの判断を内的妥当性という。
*3 交絡因子:2つの要因(要因1と要因2)が互いに関連しあっていて、その内の一方(要因1)が観察事象と因果関係がある場合に、他方の要因(要2)も一見当該事象の原因と見えてしまうことをいう。
例えば肺癌を観察事象としているときに、要因1として喫煙、要因2に飲酒を考えればわかりやすい。喫煙と肺癌の関係が因果関係があると証明されていて、その上喫煙と飲酒習慣は互いに関連しあっていることがわかっている。しかし、飲酒習慣と肺癌の関係はないのに関わらず、喫煙と飲酒の関連からあた かも飲酒と肺癌に因果関係があると見えてしまうことをいう。
<参考及び引用文献>
1)『分かりやすいEBM講座』 厚生科学研究所 2000年5月 3000円+税
厚生省健康制作局研究開発振興課医療技術情報推進室監修
2)『鍼灸最前線』 丹澤 章八 尾崎 昭弘 編 1997年4月 3000円+税
医道の日本社
3)『アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠』
米国医師会編 田村康二訳 泉書房 2000年2月 5600円+税
4)「民間療法を徹底検証し、正当医療に取り入れる」 田村康二教授に聞く
メディカル朝日 29巻4号 p60~62 2000年4月
5)『医学中央雑誌』 医学中央雑誌刊行会 CD-ROM版 350.000~520.000
6)『全日本鍼灸学会誌』 第50巻2号 p277~p375 2000年5月
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