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どこまで解った鍼灸の科学 EBMってなあに? その8

 前号では、確定診断が出る病態に対して、理学テストの有効性について検討した。次に東洋医学的検査では、EBMの手法は使えないのであろうか。

<脉診の実験について>
 それでは脉診の感度と特異度はどうであろうか。感度とか特異度という場合には、その結果を証明する西洋医学でいえば病理所見(確定診断)があれば良いのであるが、腎虚証や内熱などを証明する方法手段を持ってない。よって、感度とか特異度という指標は得ることはできない。
 しかし、多くの人が診断し、その内の大多数の人が同じ診断を下したのならそれは確定診断とはいえないが。それなりに重みのある診断ということができよう。これは誰でも同じ結論が出るということで客観性*1のある診断という評価を得ることができる。
 また、一人の術者が、同じ患者に二度診断をした場合に同じ診断を下せるかどうかということも重要な指標である。これは術者の診断技術が安定しているかどうかを診るもので、このような実験を再現性*2を評価する実験という。

<脉診の再現性の実験>
 脉診については、この再現性と客観性の実験が昭和42年頃に行われている。当時の新進気鋭の若手鍼灸師(今では老中医で亡くなっている人も多いが、東京を中心とする現在では著名な鍼灸師)が東京大学医学部の高橋晄正*3氏を講師として勉強会を行っていた『おうぶ会』で行われた実験である。初めは再現性の実験が行われた1)。
 実験は幾つか行われたが、最初の実験は経験年数7年から25年の脉診を行う臨床家6名と被検者8名によって行われ、目隠しをして脉診を行い、次に被検者の順序をランダムに入れ替えて、再度脉診を行い、両方の脉診結果が一致するかどうかを見たもので表4に示した。これによると、6人の検者の内8人の被検者で5人一致した検者(再現率63%)が3人で、他は2~3人(再現率25~38%)しか一致しないかった。
 2回目の実験は検者6人に12名の被検者で行った。ものでその結果は、表5に表した。これも2人の検者のみが2/3以上の再現率(統計的に有意*4)であったが、他は50%にも満たなく、一人は12人中1人しか一致させることはなかった。
 3回目の実験は、検者5名に被検者10名で行い、表6に表した。その結果、50%しか一致しなかったT2の検者以外は皆統計的に有意な再現率であったとのことである。ここでの統計的に有意というのは、統計的に一致している(再現性がある)ことが認められるという意味ではなく、偶然でも起き得る確率が5%以下であり、偶然ではなく何かの力(脉診力)が働いていると考えられるという意味である。だから、ここで有意ということで、一致していることが認められるということでないことに注意が必要である。
 この3回の実験に参加した検者は11名になり(複数回参加の検者もいる)、それらを合計したものを表7に示した。これによると一致率が70%以上の検者は2名しかいないし、60%以上としてもやっと過半数の6名である。また、統計的に有意な再現性が得られたのも6名であった。
 この表に、検者の経験年数が書かれていたら、経験年数と一致率の相関性*5を分析してみるのも一つの重要な示唆を与えてくれたかも知れないが、多分当事者においては、経験年数を書くと誰がどれだか分かってしまうということであえて書かれなかったのではないかと推測されるが、経験年数と再現率はかなり相関していたという風に聞いていたが本当のところは分からない。
 確かに、脉は流動的で時間が経てば変わるという意見もあるし、変化するものであることは疑いないが、少なくとも十分や二十分で変わってしまっては、脉診に基づく鍼灸治療という観点では治療そのものの価値が疑われるといわれてもしょうがないであろう。昔(昭和49年頃)経絡治療夏期大学で、一人の被検者に対し講習会参加者が脉診し、いろいろな脉証をいって、全くバラバラであったことがあり、その時岡部素道氏が、「脉は刻々変わるものであるから、皆さんの診断は全て正しいのかも知れない。」と述べられたときには非常な違和感を覚えた。 今、思えば、この実験結果からそう言わしめているのかも知れないなということに気がついた次第である。
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<脉診の経験者と未経験者では再現性が全く違う>
 表8は、脉診が未経験な学生が行った再現性の実験である。この一致率は非常に低率であり、これに比較すると経験者の一致率は高く、技術の水準があることは疑いないといえる。

<相生関係の差異と相克関係の差異>
 さて、表9~11は1~3回の実験で、最も一致率が高かった検者の脉診結果を示したものである。経絡治療でいうところの肝虚証とは、通常肝経の虚を意味せず、難経六九難に則って腎経と肝経の虚を意味している。すなわち、当該の経の虚とその親の経の虚が合わさったものと解釈されている。ということになると、例えば肝虚と腎虚という不一致は、腎肝の虚と肺腎の虚という不一致であるから、半分(腎)は一致しているということもいえる。すなわち相生関係の不一致は罪半減であり、相克関係の不一致は全くの不一致ということである。そういう観点でこの表9~11を見ると3人の検者(同一人の可能性もあるが)が30人の被検者に対して再現の不一致は7件あるが、相克関係の不一致は表9のP8の被検者に対する1件だけである。この点を、数値で表現したり、評価したりすることは非常に難しいが、このような実験結果を吟味する時には考慮されるべき事柄である。
 いずれにしても、脉診の再現性のばらつきは大きく、熟練者と中堅者及び初心者とではかなりの違いがあるということが出来るし、熟練者では相当の再現性があるという評価もできる。
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<病人の脉と健康人の脉の診断に差があるか?>
 表12は、2回目の実験で再現率が高かった、二人の検者での脉証が一致するかどうかを見たもので、いわゆる客観性があるかどうかを判断する材料となる。このケースでは60%の一致を見て、推計学的に有意であったが、他の組み合わせでは全て有意にはならなかったと報告されている。再現率が高くても、客観性が無ければ診断価値はない。この場合では4件の不一致があり、それも相生関係の不一致は2件で、相克関係の不一致が2件もある。
 この結果は、脉診の再現性については熟練者ほど再現性が高く、未熟者は再現性がないということから、技術的な熟練により脉診の精度を高めることが可能であるということはいえても、客観性が見られないということで、脉診家にとってはあまり歓迎できないものであった。しかし、それは健康人を対象としたからで、病態がはっきりしていると脉証もクリアに出て精度も高まるのではないかということから、次年度に新たな実験が行われた。2)
 実験方法は、病人群20人と健康者群20人で行い、再現性の実験方法としてはそれまでと同様にしたが、この実験は4回に分けて行われた。その結果、病人群における再現率と健康者群における再現率にはほとんど変わりが無く、統計的にも有意な差はなかった。また、再現率が高い検者においても同様に病人群と健康者群との間では差がなかったという結果になった。この結果から、病人群の方が脉がクリアに出て、典型的な脉証になり、診断を間違えることが少くなるという仮説は棄却されたことになる。
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<脉診の客観性の実験>
 今までの実験は、あくまでも再現性があるかどうかを見る実験であり、初めから客観性を検討するために試みられた実験ではなかった。
 客観性を試みた実験としては、前2つの実験と同じ頃に当時の東京都鍼灸師会の青年部で作られた「あゆみ会」において行われた4)。この「あゆみ会」は前出の「おうぶ会」のメンバーとかなりダブっている。
 この実験に際しては、再現性を検討するものでないこと、目隠しをすると交感神経が高ぶるということと、診断は脉診のみならず四診で行うものであるという理由から、目隠しをせずに脉診だけでなく四診の実験ということになった3)。
 会の参加者より、症状のある5人を被検者とし、4人の検者で実験を行った。この結果については、表13に示したが、この解釈を巡っては妥当(充分満足がいく)であるという意見や診断技術としては不十分であるという意見が出たうえに、統計的な分析においてもいろいろなことが考えられ、断定的なことがいえないのである。引用文献の雑誌が廃刊になっているので入手し難いということもあり、簡単にその経緯を紹介する。
 表13には、肺虚、腎虚、肝虚の3つの証しかないので、これしかないという解釈の元でχ二乗検定*6を行うと、5%水準で有意にならなく偶然でも充分起き得る一致度合いということになる。しかし、陰経の虚は、このほかに脾虚や心包虚があり(経絡治療では心虚はなく心包虚となる)、それらを考慮すると1%水準で有意となり、偶然でも起き得る確率は非常に小さくなって、何らかの技術が働いていると考えざるを得なくなる。その他、陰経の実や陽経の虚実を考慮するとそれは天文学的数字になってしまう。しかし、実際には心包虚や陰経の実等を主証とすることは少ないので、肺虚や腎虚と対等の確率で考えること自体が疑問である。そこで、先験確率(前もって経験的にわかっている確率)を使う方がベターだと思うが、絶対的なデータはない。そこで表14に示した、岡部素道氏が調査した全国37名の経絡治療家の1673名の患者に対する「証」の確率を用いると、5%水準で有意となり脉診の診断技術が影響を与えたと判断することができる5)。
 ただし、このことは脉診に妥当な客観性があるということを意味しているわけでなく、客観性が認められるという程度の認識である。鍼灸の診断法として充分な客観性があるかどうかは、他の診断技術や、治療成績などと比較して検討していく必要がある。
 また、この場合にも経絡治療の証における相生関係の違いと相克関係の違いの問題もある。この実験において、相克関係の違いは被検者bの検者AとB及びCとの場合のみで他の違いは全て相生関係である。このことは数値以外の判断材料として考慮されるべきであろうが、どの程度考慮すべきかはわからない。
 これらの実験結果を検討して、再現性も熟練者ではかなり認められるということ、客観性もあるということが認められたということだが、脉診の診断技術としての評価は、それぞれの立場の人によりかなり違った評価が出たことであろう。
 それは、その後推計学派や経絡治療家及び代田文誌氏や米山博久氏を中心とした科学派などの対立が一層激しくなったことからも想像できる。
 それは、実験での例数が少ないこと、他の診断技術の評価との比較がないことなどから様々な評価が出たことはやむを得ないことはであるが、少なくともこういう実験を試みた「おうぶ会」や「あゆみ会」のメンバーはもとより、まな板の上の鯉となった経絡治療家の方々の勇気に絶大なる拍手を送りたい。
 今号は、現代EBMというより古典的EBMの話しになってしまったが、脉診の妥当性については、多くの方が興味があることであろうし、過去に経絡論争*7の研究をしたことがあるので、今回触れてみた。しかし、確定診断が無い状況での東洋医学的診断の評価をする場合に、ここで行われたように再現性と客観性の実験をとりあえず行って、それらがクリアされて初めてその妥当性の検討が行われるべきものであると考える。よって、再現性と客観性の実験は東洋医学的診断の評価をする場合にとりあえず行われるべき実験だと考えるが、その後の妥当性の実験をどう構築していくか、治療効果を指標としなければ出来ないことなのかどうか等、今後の検討課題はまだまだ沢山ありそうだ。治療効果を指標とすると治療法の差異や治療技術の問題など、またまた難しい問題がでてくる。
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                                 つづく

<今日のキーワード>

*1 客観性(客観的):「主観(主体)を離れて、独立の存在であるさま」と  か、「自分だけの考えでなく、誰が見てももっともだと思われるような立場  で物事を考えること」等と定義され、目で見える事実や数字で表さすことが  できること、数学や統計で分析できること等が要件となる。ここでは、複数  の診断者によって、診断が変わらないで共通の答えが出ることを意味してい  るが、その共通の答えが出る割合の強弱によって客観性が高いとか低いとい  うような言い方をする。しかし、どの程度であれば妥当な客観性として認め  られるかどうかについての基準はない。

*2 再現性:デカルト流科学では、科学的かどうかの判断をする中で、誰でも  同じ条件下では同じ結論が出ること、同じ条件で実験をすれば同じ結論が出  ること、を一つの要件としている。いわゆるある実験結果について、他のも  のが同じ条件下で行う追試がそれに当たる。ここでは、ある一人の被検者に  下した診断を同じ条件下で再度同じ診断が下せるかどうかで再現性があるか  どうかを判断している。ただし、実際には一度目は目隠しをして診断し、二  度目は目隠しをしてないで診断をしているので厳密には同じ条件下とは言い  難い。目隠しをしていなければ望診情報が自然とインプットされてしまうか  らである。

*3 高橋晄正:1964年に革新的な名著『新しい医学への道』を著し、計量  診断学をいち早く日本に導入した。氏は推測統計学を医学領域に普及し、肝  強薬などの様々な薬の薬効批判等多くの成果を上げた。鍼灸学領域において  も、氏に傾倒するする人が多く排出し、元(社)日本鍼灸師会会長の故木下晴  都氏、元同会学術部長の出端昭男氏はそのリーダー格で推計学派といわれた。  私は、この『新しい医学への道』は、鍼灸師になってから読んだが、もし  高校生の時に読んでいたら、絶対に医者になったであろうと確信を持ってい  える名著である。しかし、EBMの時代となった今日では、既に古典的名著  ともいうべきものとなったことは否めない。

*4 統計的に有意:一般的には、「二つの事象間に差がない」という仮説を棄  却する場合、すなわち「二つの事象間に差がないとはいえない」といえるこ  とを意味している場合が多い。そして、それは偶然では起きる可能性が低い  場合と判断されたときに用い、一般的には偶然でも起きる確率が5%以下か  1%以下の場合に用いられ、それぞれ5%水準で有意とか1%水準で有意と  いうように表現される。ここで一つ問題なのは、あくまでも偶然でも起きる  確率の多少で判断するわけであるから、たとえ1%水準でもその時に偶然で  起きた可能性は否定できないし、5%水準で有意でないと判断されても偶然  でなかった可能性はかなり高いのである。
   よって、統計的に有意であったからといって真理であるかどうか、または  統計的に有意でないからといって真理でないということについては、統計的  に有意であるかどうかで判断することは出来ないのである。様々な角度から  分析して真理らしさの証拠を沢山集めて初めていえることであろう。
   それに対し、その1で述べたように意志決定論的立場というのがある。そ  れは、「真理はともかく、自分は統計的に有意であるならばそれに従って行  動を起こします。」ということである。この場合の有意とは、意志決定のた  めの基準ともいうべきもので、有意という言葉には、いろいろな意味を持っ  ているということでもある。
   この文章(その8)での統計的に有意及び推計学的に有意というのは、原  典で記述されていることをそのまま書いたものであり、その統計的手法につ  いては記載がないので方法を推測して追試することは出来るが原典を尊重し  た。よって、私自身が分析したものではない。以下も同様であるが脉診の客  観性の実験の部分は別である(原典は私自身)。
   なお、統計的に有意かどうかは、差が大きければ大きいほど有意性は高ま  るが、数が多くても有意性は高まる。すなわち少しの差でも数が多ければ偶  然に起きる確率は減るわけであるし、大きな差でも数が少なければ偶然でも  起き得るからである。表7で、一致率が47%と低い検者6の再現率が有意  であり、63%と高い検者7や56%の検者8が有意でないというのは被検  者の数の多少で決まってしまったことであると推測される。

*5 相関性:ある事象の変動と他の事象の変動が連動していることを意味して  いて、給料が上がると物価も上がるという場合には正の相関があるといい、  馬券の当たる確率が高まると配当金の額が下がるというのは負の相関がある  という。それに対して、いくら残業して働いても給料が変わらない場合には  相関が無いということであり、相関がないかほとんど無い場合には、それら  の事象は独立しているという表現が使われ、連動している場合には従属して  いるという表現になる。
 この場合には、経験年数が長ければ長いほど、脉診の再現率が高まるだろ  うと推測することは自然であるので、検者の経験年数が記載されていれば、  その検討が出来、熟練度と再現率が相関していれば、やはりそれなりに技術  水準があるということもできるのである。ところが、経験年数と再現率が独  立していたら、技術の水準はなく、当てずっぽうな診断であると評価されて  もやむを得ないということもいえるのである。

*6 χ二乗検定:金額、身長、γ-GTPなどの数値で表せるデータではなく  有るか無いかとか、鍼灸師であるかどうか、診断が合っているかどうかなど  というようなデータ0か1のデータで構成されたをものをカテゴリーデータ  というが(前号の図にある、例えばAdson’s testが陽性で実際にTOSであ  った人の数が24で、健康者であった人の数が4というようなデータ)、二  つの事象のカテゴリーデータ(テストの陽性及び陰性と実際に病気かどうか  の二つの事象)に間に相関があるかどうかを検定する統計的手法。有意であ  る場合に、何らかの関係がある(互いに独立ではない)と判断し、有意でな  ければ偶然でも起き得て互いに無関係で独立であると判断される。学問的に  は、有意でなければ差があるとはいえないということであって、無関係とは  いえないが、一般的にはそう思われてしまう。

*7 経絡論争:過去に経絡論争というべき論争は、幾つか行われているが、代  表的な論争は2回あった。最初の論争は昭和22年に発表された代田文誌氏  の「鍼灸医学の新しい方向」と題された論文や米山博久氏の「経絡無用論」  等に端を発した「経絡」や「経穴」そのものを対象とした論争である。代田  氏や米山氏らは経絡や経穴が無くとも神経・血管・筋肉などを対象として治  療することは可能であるという立場をとり「科学派」と称せられた。
 次の論争は昭和42年頃に行われた論争で、竹山晋一郎氏を中心とする経  絡治療派(古典派)と木下晴都氏と出端昭男氏らの推計学派との間で戦わさ  れた論争で、経絡を対象としたのではなく経絡治療を対象とした論争である。
 詳細については本号引用文献4)を参照されたい。

<引用文献>
1)「六部定位脉診法の実験的研究」 おうぶ会 出端昭男
  日本鍼灸治療学会誌 第17巻3号 P9~12 1968年
2)「六部定位脉診法の実験的研究(第Ⅱ報)」 おうぶ会 黒須幸男
  日本鍼灸治療学会誌18巻3号 P26~30 1969年
3)「医術から医学へ」 出端昭男 漢方の臨床誌 第14巻4号 1967年
4)「新しい”中国医学”確立のために‥‥経絡論争の現代的意義を探る」
  小川卓良 CHINESE MEDICINE Vol.1 No.2 p153 1978年
5)岡部素道 日本鍼灸治療学会誌12巻3号 1963年

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