Ⅰ、今、何故東洋医学なのか‥‥その1
西洋医学が世界に誇れるほど発達し、設備・人材・他の科学技術等の医療環境が整備充実し、その上国民皆保険が定着している現代日本で、何故、東洋医学が燦然と生き残っているは何故か。
1、国民が西洋医学にない利点を東洋医学に求めているからであり、その利点は何か。
2、西洋の科学体系に基づかない東洋医学が何故国民に認知されているのか、すなわち、 非科学的と排除されないのか。
3、今後も現在と同様に鍼灸のニーズはあるのか。(図1)
図1 今、何故東洋(鍼灸)なのか
1、西洋医学が発達し
2、医療環境(設備、人材、科学技術など)が整備され
3、国民皆保険が定着している現代日本で何故東洋医学なのか
↓
今後も現在と同様に鍼灸のニーズはあるのか
この疑問を解くためにまず鍼灸が果たしてきた役割を歴史的に評価すると(図2)
鍼灸は歴史の中でその役割を変化させてきた(変化させられた)し、現在でも国によってその役割は一様ではない。これは、
A、鍼灸のリーダーがその時代に則したように鍼灸を変質してきた(自己変革)。
B、鍼灸は元々普遍的にどんな状態にも対応できる本質的な力を持っている。
の何れかか、その両方があるかである。
しかし、近代日本では(明治7年以降)鍼灸単独の評価と役割というよりも、西洋医学との関わりの中で鍼灸が評価されているし、その役割も定められている。
よって、「今何故東洋か」を考えるには西洋医学、特に西洋医学とその理論の基礎となっている近代合理主義的科学について考える必要がある。
近代合理主義はニュートンやデカルトがその源であり、一般的にはデカルト科学とも呼ばれ、この科学は、
① 理論に合致している ‥‥ 合 理 性
② 全てに通じる ‥‥ 普 遍 性
③ 共通に認識できる ‥‥ 客 観 性
④ 同じ条件で再現できる ‥‥ 再 現 性
というような性質をそなえているか、備えることを目標としている。通常「科学的」という言葉を使うときはだいたいこの様な性質のものを指していると考えていい。
近代合理主義では、以下のように「細分化」と「再合成」というプロセスで全体を部分の合成により理解するという方法を取る。⇒『要素還元主義』
※ デカルト科学の理解の方法(要素還元主義)
○ 細 分 化(分割して分析)
→部分に分ける
→各部分が明確に認識できるまで分割を繰り返して細分化していく
○ 再 合 成
→分割した各部分を全て明確にする
→これらを再合成して全体を理解する
デカルト科学の問題点を列挙すると以下のようになる。
○ 全ての物を明確に認識できるのか
○ 全てのものに正解があるのか
○ 分割することで失われるものはないのか
○ 合成することで失われるものはないのか
○ 物質中心の科学でよいのか→感性・感情等の曖昧なものは排除する
○ 平均値で処理してよいのか→幅があるもの全てを考えることはできない
○ 曖昧なものを排除してよいのかetc.
デカルト科学→複雑な対象は苦手
人間→超複雑
医学→人間を対象とする「科学」
医学は科学か?
医学は科学でありつづけることが是か非か?
単一の原因で病気になり、誰もが教科書と同じ経過をたどるということは滅多にない。ただ、すぐ死に至るようなものや、進行性の病気等は原因となる要素が非常に強烈な場合が多いので比較的診断し易すく、西洋医学ではそのての病気は比較的診断が明確に下せる。
コレラは単一の原因で起こるとされ、その原因が非常に強固な典型的な例
コッホ:病気は細菌によって起きると考えコレラ菌を発見
ペッテンコーフェル:病気を起こす原因(接触性病因因子)と人間の抵抗力(個体因 子)と環境因子の3つの要素の複合によって起こると考えた。
コレラ菌を飲んで発病せず自説を証明した。
しかし、普遍性や客観性を重視するデカルト科学が万能の当時は、複雑な環境因子や個体因子は無視され、発見されたばかりのわかりやすいコレラ菌病因説の方が説得力があり、コッホのみが賞賛された事実がある。コレラでさえそうであるからいわんや‥‥である。
デカルト科学は複雑なものを苦手としているが、複雑なものを対象とする科学的方法は他にないのか。
デカルトと同時代に生まれた偉大な科学者・哲学者にパスカルがいる。パスカルの科学的アプローチはデカルトと全く異なっていて、主観や総合性、個別性というものを重視する考え方である。
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